rinko kawauchi
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「From Our Windows」から紐解く、循環の中で生きる川内倫子の目線

rinko kawauchi

photography: yudai kusano
interview & text: tomoko ogawa

Portraits/

川内倫子と潮田登久子、世代の異なる写真家による対話的な二人展「From Our Windows」が、5月12日まで KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2024、京都市京セラ美術館会場にて開催中だ。川内は自身の家族を撮り続けた初期の作品「Cui Cui」と、娘の出産からの3年間を撮影した「as it is」を展示。潮田は定点観測のようにさまざまな家庭の冷蔵庫を撮影した「冷蔵庫/ICE BOX」と、偶然見つけた約40年前の生まれて間もない娘と夫の島尾伸三と過ごした日々を記録した「マイハズバンド」のシリーズを展示する。潮田とのコラボレーションを提案した川内に、展示の展望について聞いた。

「From Our Windows」から紐解く、循環の中で生きる川内倫子の目線

—今回、4年連続となる KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭と Kering (ケリング) とのパートナーシップによる、世代の異なる対話的な二人展「From Our Windows」で、潮田さんと組もうと思ったきっかけについて聞いてもいいでしょうか。

最初、KYOTOGRAPHIE の方から依頼をいただいたときは、次世代のアーティストとの二人展と言われていたのですが、あまり思いつかなくて。「世代が異なるという意味なら、年上の方でもいいですか?」と訊ねたら、「それもいいですね」とお返事をいただけたんです。潮田さんは大先輩なので彼女の作品は見てきましたが、2022年に刊行された『マイハズバンド』(torch press)には、これまでとは少し違ったものを感じて、お互い身近なものを被写体として撮っているという共通項もあり、どこか近しいものを感じたんです。それで、潮田さんにお願いできたら面白いのではと思いました。

–芸術や文化の分野で活躍する女性の才能にスポットを当てることを目的に発足された、Kering のプログラム「ウーマン・イン・ モーション」により支援を受けて二人展は開催されていますが、川内さんは、写真家として活動しながら、女性のエンパワーメントの必要性についてはどのように考えていますか?

昔の時代に比べれば、女性がだいぶ生きやすくなってきたとは思いますし、ジェンダーレスな社会に徐々になってきているとは感じます。でも、例えば女性だから男性だからといった偏見や思い込みがもっとなくなっていくといいなと思います。とはいえ自分が何か活動をしているかというと、そういうわけでもないかもしれません。

—自分らしく作家として活躍を続けている女性がいるということ自体、一つのエンパワーメントのかたちだと思います。

ただでさえ女性は生理が月に一度は来ますし、出産や育児など、さまざまな働きにくさを抱えながら何とかやっているわけですよね。その時点でもっと大事にされてもいいのに!と思う。生理休暇が当たり前になればいいし、貧困で生理用品を買えないという声が上がっていると聞いたりすると、社会システムの足りなさに対しての怒りは常に消えませんね。

—「女性写真家」と呼ばれることに対しては、どんなふうに受けとめていたのでしょうか。

時代的にもそういうものとして受け入れていましたが、なぜ女性だけが「女性作家」と呼ばれるんだろうと疑問には思ってました。そういうモヤっとした違和感は幼い頃からあって、例えば子どものときに、母は兄には言わないけれど、自分にだけ「お料理を手伝って」と言う。「なぜお兄ちゃんには言わないの?」と口答えしたら、「だって女の子だから」と答えられるような昭和の価値観の中にいましたから。でも母も、「あれは時代やったな」と今では言っています。当時同居していた祖母からの目線もあり、女が家事をするものという偏見を植えつけられていて、疑問も持たずにきていたわけですからね。小さい頃から思っていた、そういうものじゃないし、おかしいという気持ちをが、今の時代はやっと普通に声に出せるようになったのだなと感じます。

—子育ての場面では、そういう偏見を植えつけないように意識されています?

「女の子なんだから」とか「女の子だからこうしなさい」というような表現はしないように気をつけています。例えば、年配の人がたしなめるようにそういうことを言うときは、やんわりと「まあ、いろんな目線があるよね。でも別に気にしなくていいんだよ」と後で娘をフォローしたりしていますね。

—川内さんは、コンスタントに撮影をし、展示し、作品集も出し、文章も執筆されます。それぞれの体験の関係性について教えていただけますか?

今回ご一緒している潮田さんもきっとそうだと思うのですが、私は写真体質なんですよね。だから、ずっと続けているし、それがないと逆に生きづらいというか、それぞれの体験がリズムになって染み着いている感覚で、どれも自分の人生を豊かにしてくれるものなんです。

—全ての工程が循環している感覚なのでしょうか。

そうですね。ずっと撮っているばかりだと作品は溜まる一方なので、まとめないと収集がつかない。だから、編集して写真集にしたり展示したりすると、自分を客体化できる。そこで、私はそういうふうに思ってたのかと自分の気持ちの整理をつけて、なおかつ作品を見てくれるいろんな人とシェアすることができる。その一連の行為が、自分が生きる上でのメンタルを健康に維持するための装置になっている感覚です。

—写真家で文章を書く方もいらっしゃいますが、文章と写真は、それぞれ表現できる部分が異なりますよね。通常の文章の場合、丁寧に重ねていかないと伝わらないことが多くなっていくというか。

補い合っているものだと思いますね。ただ、文章はより時間がかかるかな。散文を書くのとエッセイを書くのもまた違うし、文字数によってもまた表現が変わってきますが、写真の限界ってやっぱりあるんです。だから、私は映像もつくっている。映像をやる理由としては、写真では表現しきれない限界があって、モヤモヤしてストレスになってる部分を映像で足すことでバランスが良くなるからなんです。それでも足りない場合、文章を入れることもありますし、オペラシティギャラリーのときみたいにサウンドインスタレーションを入れてみたり、布にプリントしてみたりします。特に展示の場合は、その時々で空間と何がぴったり働き合うだろうというのは考えますね。

—2001年、デビューと同時に発表した写真集『うたたね』『花子』『花火』(すべてリトル・モア)から約23年が経ちますが、ご自身と写真との距離感みたいなものは変化していると思いますか?

同じ人間でもね、20代、30代で違いますよね。自分でも変わったなと感じますし。今回、KYOTOGRAPHIEで展示する「Cui Cui」というシリーズが、学生の頃、19歳で最初にカメラを持って以降、13年撮っているものなんです。だから、技術的にもいろんな詰めがすごく甘いけれど、あのときにしか撮れなかった写真だから、良い悪いじゃなく撮っておいてよかったなと思える。展示用にプリントを焼き直したのですが、色見本として写真集を見ながら焼いたんですね。中には、今なら絶対こんな色には焼かないという写真もやっぱりあって。でも、それも含めてそのときのものだから、なるべく壊さず、もともとの色に近づけつつ、今の自分として少しだけブラッシュアップもしつつ、とバランスを整えながらやりました。

—当時の自分と再会する感覚になりそうですね。

そうなんですよね。特に今回は初期の作品だったので、その時々の自分と再会し直す感覚がかなりありました。一方で、一貫してずっと変わらない部分もあって、それが自分ってつまらないなと思うところでもあるし、ポジティブに捉えれば、持ち味と言えるかもしれません(笑)。

—2022年末、オペラシティギャラリーで、六年ぶりの大規模な個展「川内倫子 M/E 球体の上 無限の連なり」があり、翌年、滋賀県立美術館へ巡回し、それ以降はコンスタントに展示をされている印象がありますが、オペラシティでの個展を振り返るとどんなことが思い出されます?

当時はまさに更年期で、ものすごく体力的にしんどかったんです。作業する間に横にならないと身が持たなくて、横になって起きての繰り返しだったけれど、50歳のあのときにやっておいて逆に良かったのかなと思えるところもあって。なぜって、出産後初めてつくった新作が〈M/E〉なのですが、出産後、私、もしかしたらもう作品つくれないかもしれないと思っていたので。でも、やってみたら意外とできたんですよね。子どもが手を離れているわけではないけれど、2、3歳の頃に比べたらひと段落したところだったし、娘に向かっていた目線を自分の作品にもう一度向けることができた。だから、展示が決まっていて、無理やりにでもやれてよかったなと。そうじゃなかったら、もうちょっとサボっていたかもしれません。

—子育てによってキャリアが一時停止してしまうという問題を前に、葛藤している女性は多いですよね。

本当に。そのことについては周りの友人たちとたくさん話しました。環境によってはまだ復帰できていない人もいるし、以前と同じようにできるのかという不安もあるし。こんなにたくさんの女性が働いている時代なのに、日本のジェンダーギャップ指数も先進国の中で最下位で、国のシステムも追いついていない。働く人たちの労働環境をよくしない限り、少子化が止まるわけがないだろうと思いますね。

—最近もアーティストの久保田珠美さんや音楽家の原田郁子さんとふたり展をやっていましたが、二人でもグループでも自分以外の人たちと展示することをどのように楽しんでいますか?

それぞれに違った面白さがありますね。グループ展で自分がキュレーターの方に選ばれた作家さんとご一緒するときは、なるほどな、こういう視点でこういう人を集めたんだという発見があります。その中のひとつになれたのはすごく嬉しいなと思います。教室の中の一人になれた気がして。一方で、二人展はそれよりもっと小さい範囲になるので、もう少し作品を通して会話をしている感覚がある。

–実際に話すのではなく、作品で対話するんですね。

そうなんですよね。変な話、お互いの作品をカードとして出し合いながら構成していくっていうことが多いですね。今までいろんな方とコラボレーションしてきましたが、打ち合わせもほとんどしません。あまり説明じゃない方がいいから、感覚的なものを大事にします。例えば写真家の Terri Weifenbach (テリ・ワイフェンバック) と二人展「GIFT」をやったときは、時々近況報告としてメッセージを書いたりはしていましたけど、メールでそれぞれ1枚ずつカードを出す方法で進めていきました。タイトルを「GIFT」にしたのも、毎回、ピコンと Terri からメールが来るとワクワクしていたから。今日は何が来るんだろうと。だから、お互いにギフトみたいだったねということからタイトルが決まりました。

–作品が増えて、広がっていくに連れて、いろんな場所のいろんな人たちからフィードバックをもらう機会も多いと思います。受けとめる側の人たちが作品を言語化することには、どういうふうに向き合っていますか?

若いときは経験がないから、最初の写真集を出したときはどうなるんだろうなと思っていましたし、なんでもない日常を撮ったものなんてそんなに売れないだろうと想像していたんです。『うたたね』の出版に合わせて、当時パルコブックセンターの隣にあったパルコミュージアムで展示させてもらったときに、在廊中に売れ行きを見ていたら、「減ってる!」という喜びはあったけれど、この個人的な写真をなぜ買う人がいるのかは謎で。でも、それから何十年も経つと、それなりに理由がわかってくるんですけどね。だから、最初は、見る人を突き放してた気がします。でも、今となっては、それぞれに見る方の感受性がすごいと驚かされます。やっぱり、写真は見る側の力が必要なので。私が思ってもいないような感想をいただくこともあるし、鏡のように自分を見せてもらえるというか。顔を見たことも会ったこともない方々から素晴らしい感想をもらえると、同じ地球上に暮らす、同時代に生きる仲間なんだなと思える。写真を通じて、会話ができている。すごく豊かな循環がそこにはあって、それって美しいな、そんな仕事ができてありがたいなと思います。

—そこにはいない人と対話するという感覚は、本を読んでいるときもありますよね。

よく考えてみると、今の仕事を志したのは、本をつくる側の人になりたいと思ったからなんですね。小さいときに読んだ物語が自分をつくってくれていると思っていますし、本は誰にも言えない自分の世界を代弁してくれる友達であり、世界を見せてくれる教科書であり、先生でもあるから。その力を信じているし、救ってもらった本に恩返しをしたいような気持ちもあって、つくり手側として仕事ができたらいいなと幼い頃からなんとなく考えていたんです。だから、もしそれが今できているとしたら、自分は夢を叶えたのかもしれないと思うときもあります。

—最後に、KYOTOGRAPHIEの潮田登久子さんと二人展は、どういう側面で面白くなりそうだなと感じているか聞かせてください。

今回は、潮田さんと私、お互いがコツコツ積み上げてきた時間の積み重ねで見えてくるものがあるのではと思っていて、それが展覧会の一番の特徴かもしれないですね。