shunji iwai
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「絶望した時に見上げた空は青かった」岩井俊二がみせる景色

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photography: riku ikeya
text & interview: hiroaki nagahata

Portraits/

岩井俊二監督の新作『キリエのうた』は、去る10月13日に封切られ、すでに SNS では多くの感想がポストされている。その中で特に印象的だったのが、「余韻で苦しい」「余韻がすごい」というもの。たしかに、岩井俊二といえば『スワロウテイル』や『リリイ・シュシュのすべて』の頃から「余韻」がよく語られてきた作家だったことを思い出す。登場人物が自分の人生に入り込んでくる、あるいは自分が映画の中に入り込んでくる。映画と現実、2つの世界が溶け合って、元の自分に戻れなくなるあの感覚。映画が置かれる環境が激変する一方で、岩井作品と観客のコミュニケーションの在り方が何十年も変わっていないことに、驚嘆せずにはいられない。

「絶望した時に見上げた空は青かった」岩井俊二がみせる景色

さて、『キリエのうた』は、普段は声がうまく出せないが誰もが一瞬で耳を奪われる歌声を持つキリエ(アイナ・ジ・エンド)と、「女を使って生きる」という血に抗おうとするも結局は親と同じ道を辿ってしまうイッコ(広瀬すず)が、新宿駅前の通路で(再び)出会うところから始まる。そこから様々な土地、時間を行き来しながら物語が進んでいく中で、人が生きる上でどうしても避けられない因果が明らかになっていく。

劇中のみんながどう生きたか。その姿を岩井監督はどう撮ったのか。強烈だが優しい物語を、劇場でその目に焼き付けてほしい。

—『キリエのうた』は当初キリエとイッコ2人のシンプルな物語だったということですが、どんなプロセスを経て話が膨らんでいったのか、教えてください。

『ラストレター』(2020年公開)と中国で撮った『チィファの手紙』(2020年公開)の両方で、主人公の小説家がむかし「未咲」という小説を書いたという設定が登場するんですが、その中の登場人物が学生時代に撮った8ミリ映画のプロットが『キリエのうた』のベースにはあります。個人的になぜか気に入っていて、ずっと頭に残っていたんですよね。

—ということは、夏彦(松村北斗)は当初存在しなかったキャラクターだったんですね。登場人物の中でも彼のことは特に印象に残ったのですが、夏彦はこの物語の中でどのような役割を担っているといえますか?

最初のプロットで、キリエが震災を経験しているというくだりがチラッと登場するものの、映画でそれを出すつもりはありませんでした。ただ、彼女が劇中いろんな曲を歌い上げていくシチュエーションを想定した時に、物語自体をもうすこし拡張していかないと、映画が彼女にふさわしいステージにならないなと。そこで、震災のパートを膨らませていく過程で、今度は震災時に自分が別で書きかけていた文章を思い出しました。まだ世にも出ていないんですが、それが夏彦を主人公にした物語だった。それをそのままボンと映画の中に入れ込んだ、というわけです。

—彼は震災で大切な人をなくすという大きな悲劇を背負って生きているわけですが、彼の登場によって物語をどんな方向に持っていこうと考えたのでしょうか? あるいは、彼は現代におけるどんな人物を象徴しているのでしょうか?

震災の時に自分が思ったのは、ただ「人が被災した」ということではなく、人それぞれ色んなシチュエーションがある、ということ。つまり、ある決まった被災のパターンがあるわけではなく、多種多様なものが綯い交ぜ(ないまぜ)になっている。だけど、もちろん僕がそれをすべて描くことはできない。そこで自分が想定する「一人」を煎じ詰めてみたのが、夏彦でした。映画のとおり運命的には相当に残酷なものを想定して描いていますが、かといって何か特定のメッセージを託したわけではない。だから、観客に対して「こういう風に捉えてほしい」というのはないんです。僕自身が手探りの状態だし、今回は夏彦という人物をああいう風に定着させていったというだけで、彼のことを観てどう感じるかという点においては、自分が立ち入る領域ではないと思っています。

—今のお話は、岩井さんの演出方法にもつながるのではと思います。『スワロウテイル』公開25周年の際、岩井さんとの対談の中で(俳優の)伊藤歩さんは「演出されている感じがしない」とお話されていましたが、私も観客としてまさに同じことを感じていました。岩井さんは現場で俳優さんとどのような会話を交わしているのでしょうか?

自分は(映画を作る前に)小説を書いているので、まずはそれを読んでいただく。その上で役者さんが演じることが、そのまま自分の本に対するアンサーになる、という感覚です。だから現場では、あちらから質問がないかぎりこちらから何か言うことはありません。本当に、何もない。本が自分からの唯一の発信なので。「これはだいぶズレてるな」と思ったら修正を入れることが稀にあるんですけど、その段階に入るとあんまり良い結果にならない。あと、下手に打ち合わせで約束したとしても、現場でそれをそのままできる人なんてほとんどいません。変に期待してもガッカリしちゃうので、それだったら、何も言わずに任せて「ああ、ここまでやってくれるんだ」という方が良いんじゃないかなと。

—シンプルですが、賭けのようなところもありますよね。

はい。キャスティングした時点でほとんど勝敗が決まるので、オーディションがすごく大事です。現場は人のパフォーマンス次第。歌と一緒ですよね。ヴォーカリストを選抜した時点で、その人の歌い方っていうのは決まっている。最初から上手な人を選べば何も言わなくてもうまくいくんです。

—そのやり方はどこで編み出したんですか?

うーん、不幸なことに自分以外の演出家の現場を見る機会がほとんどなかったので、普通のやり方というのがわからない。他にも方法はたくさんあるんでしょうけど。まあ、(自分のやり方で)特に困ることもなかったんで、そのままやってきたというだけなんですが(笑)。

—岩井さんの映画って、ストーリーは原作通り進んでいくんですが、キャラクターに関しては小説と映画で印象がけっこう異なる。なので、今のお話には頷けます。キャスティングの時点で全てが決まるという話でいうと、アイナさんは今作が初演技でしたが、彼女が岩井映画に馴染むという確信はどの段階で持っていたんでしょうか?

最初に撮ったのが、雪がふる中で(広澤)真緒里と初詣にいく帯広のシーンだったんですが、それを観た時に「これはもう掴んでいるな」と思いました。高校生を演じていて、セリフはないんですが、表情で一生懸命やってくれていた。実は撮影に入る前、ユーチューブでひとつだけ彼女が演じている姿を発見したんですよ。それが大阪のおばちゃんみたいな芝居で、今回の映画でこのトーンが出過ぎちゃうと困るなとは思っていましたが(笑)。ステージを観ればパフォーマンスの力量は間違いないので、さすがにまあ大丈夫だろうと。

—やはり演出をする・しないでいうと、岩井さんは「しない」タイプということでしょうか?

挙動には、人それぞれのリズムやタイミング、行動原理がある。(広瀬)すずちゃんとかはコントロールできるのかもしれないですけど……たとえば、アイナさんや(松村)北斗くんは直感でやってくれているので、変に立ち入ると固くなってしまう。本人が無意識でやれていることに関して、いったん意識させると消えてしまって二度と出てこないし、その後はいわゆる「カメラの前のお芝居」になっちゃうんです。

—なるほど。今のお話を伺って、コントロールの外側にある人間の挙動が、岩井さんらしさを強烈に感じさせる映画全体のリズムに繋がっているのかも、と思いました。

ここはデリケートなのでいつも恐々しています。自分の現場は言わないところで成立していることが多いのかもしれません。

—岩井さんらしさといえば、もうひとつ、その時代ならではのモチーフが作中に散りばめられていることが挙げられます。今回も、路上ライブというモチーフは普遍的でありながら同時にとても現代らしい(コロナを経て新宿駅前では多くのストリートミュージシャンが演奏している)と思うのですが、岩井さんが今回「路上ライブ」に着目されたきっかけを教えてください。

以前から、路上ライブを使ってお話を作りたいなと漠然と考えていました。僕も新宿駅の前を通り過ぎながら、その人たちの生き様が気になっていたんだろうなと。あと、2人の話に関しては、さっきお話した劇中劇の中に登場する、主人公が『真夜中のカーボーイ』を勝手にリメイクしているというシーンが元ネタ。『真夜中のカーボーイ』は夢のために体を売る男性とそれをマネージメントする男性の話ですが、今回はそれを2人とも女性に変えています。今作にはそういう過去に作ったものがいくつか残っているんですよね。

—岩井さんが過去に体験されたこと、書いたものなどが要素としてポツポツと入っている作品でもあるわけですね。

それが最近の作り方になっています。自分の体験を元に話を作る。『Love Letter』とか『スワロウテイル』あたりまでは計画的に物語を追い込んでいく方法をとっていたんですが、『リリイ・シュシュのすべて』で閉塞してしまって。実はその間に数本、不完全で終わった本もありました。本格派を目指していた時期です。

—それは映画監督として?

作家として、です。そもそも、僕は映画監督かって言われるとちょっと違う気がします。だって、お話を作ることに大半のカロリーを作っていて、現場では立ち会いにきている原作者という感じなので。まあ、作家のわりに撮影もマニアックに好きなんですけど(笑)。昔は、物語作りにおけるロジック、どういう力学で物語が動いているのかを研究したり考えたりするのが好きでした。それがクラッシュしたのがリリイ・シュシュ。理詰めで作るのはもう無理だなと。途中でネットに丸投げして、そこから対話型で物語を作っていくというアヴァンギャルドなやり方を試しました。

—アプローチを変えたことによる映画自体の変化について、ご自身はどのように捉えていたんですか?

「急にぼんやりしたよね、大丈夫?」と思う人もいるかもしれませんが、自分にとっては物語を無限に追求できるようになりました。それが良いか悪いかは、お客さんが決めればいい。

—映画においてフォーマットが意識されすぎている?

今は「ここに伏線を置いたら次はあそこで回収して」というフォーマットが決まっているし、何なら読み手や観客の方がそれを学習していて、「こうなったら次はこうならなきゃいけない」みたいな話になる。そこで僕は「いけない、ってなんだろう?」と思うわけです。物語の無限性、無限のイマジネーションに自分が出会わないと、人にも提供できない。とはいえ、自分もまだ模索中、実験中で、まだまだなんですけど……それに自分の映画は、カメラを向けて撮り続けたらこんな話になったという、登場人物のドキュメンタリーになってほしいんですよね。登場人物の人生はこの後も続いていくわけだから。

—当初の短いプロットに夏彦のエピソードをそのまま入れ込んだのも、物語のフォーマットを崩すための行為といえますか?

そうです。夏彦の話を入れたら、どんなケミカルが起こるんだろうと。観ているお客さんからすると、「なんでいきなりこんな話をされているんだろう」と違和感を抱くかもしれませんが。自分でも正解だとは思っていない。だけど、まずは自分自身がアイデアに出会うということが大事なんです。

—最後の質問です。今作が上映されるタイミングで、『リリイ・シュシュのすべて』が YouTube で期間限定公開されました。自分も改めて観てみたんですが、『キリエのうた』と比較して変わらないところと変わったところを自分なりに見出したんですね。変わらないところは、作品としての圧倒的な独立性。同時代の他の作品からの影響をほとんど感じさせません。変わったところとしては、『リリイ・シュシュのすべて』はどこにも行き着かない鬱々とした感じが強い一方で、『キリエのうた』には劇中にもちゃんとハイライトのようなものがある気がするんです。楽曲の印象も同じで、主題歌である「憐れみの讃歌」にはちゃんと解放のニュアンスがある。そのあたり、監督はどう思われますか?

今作は夏彦のパートですごくディープなところに全体が連れていかれちゃうので、その反動の浮力をどこまで持たせるか、という意識があったんだと思います。リリイ・シュシュはただただ救われない話。ポジティブな要素が何もない中で、それでも生き残ろうとする力を信じたかった。自分にも「神の不在」としかいえないような絶望的な時期がありましたが、そういう時に見上げた空は青かったよなっていう。その心境でしか描けない風景がありますよね。

—『キリエのうた』も、カメラが下から人物をあおった時に映る青空が印象的です。

今作で青空が際立つのは、やっぱり夏彦のパート。そりゃ平和が良いに決まっているんですが、絶望の縁に何もないって自分は思っていないんです。