today's study: Harry Styles

【きょうのイメージ文化論】 #6 ハリー・スタイルズとジェンダーのグラデーション

today's study: Harry Styles
today's study: Harry Styles
Journal/

【きょうのイメージ文化論】 #6 ハリー・スタイルズとジェンダーのグラデーション

today's study: Harry Styles

text: yuzu murakami
illustration: aggiiiiiii
edit: manaha hosoda

写真研究や美術批評の分野で活動する村上由鶴が、ファッション界を取り巻くイメージの変化や、新しいカルチャーの行方について論じる本連載。第6回は、2023年2月、アルバム『Harry’s House』でグラミー賞年間最優秀アルバム賞、そしてブリット・アワードでは4冠に輝いた Harry Styles (ハリー・スタイルズ) について。

米VOGUEの表紙

ハリー・スタイルズの言動について、近年は、ジェンダーやセクシュアリティの観点から注目が集まっています。とりわけ大きなインパクトをもたらした出来事が、ドレスを着たハリー (・スタイルズ) が2020年12月号の米『VOGUE (ヴォーグ)』の表紙を飾ったこと。さまざまな意見を持って (どちらかと言えば好意的に) 受け止められましたが、批判もありました。

 

 

この投稿をInstagramで見る

 

@harrystylesがシェアした投稿

彼を批判したのが、前回の記事でも登場した黒人女性で保守活動家・コメンテーターの Candace Owens (キャンディス・オーウェンズ) です。オーウェンズは「強い男なくして生き残れる社会はありません。東洋人はそれを知っています。西洋で (中略) 私たちの男性が女性化されていることは看過できません。これは攻撃なのです。男らしい男性を取り戻しましょう。」とハリーの写真を引用してツイート。

「男らしい男性」を求めるということは、その裏面に当然「女性は女らしくあるべき」という規範があるわけで、これはハリーだけの問題でもなければ男性だけの問題ではありません。さらに言えば、「東洋人」とは当然わたくしどものことで、確かに日本がオーウェンズが言うような社会を温存してきてしまっている現実もあわせて見つめなくてはなりませんが、ハリーのスタイリングを「私たちの」男性に対する攻撃だとみなすジェンダー観は好戦的でかなり極端です。

「男らしい男性性が取り戻された」世界では、個人の好みや趣味、あらゆる意思決定よりも、「男らしさ/女らしさ」が優先されていくでしょう。当然、(オーウェンズだって) 好きな服を着ることさえもできなくなります。おそらくハリーはこうした批判も勘案した上でしょう。そのうえで、ファッション、自身の楽曲、そして発言を通してセクシュアリティの流動性を体現することで、男性/女性という固定的で二極化したジェンダー観から、ひとびとを少しずつ自由にしようとしているアーティストのひとりと言えます。

「クィア・ベイティング」?

しかし、彼の振る舞いや自己演出を、「クィア・ベイティング」的であるとして否定する動きもあります。クィア・ベイティング (baiting:餌付けすること) とは、クィア的な要素をマーケティングなどのために用いているという批判です。実際にはシスジェンダーであり、かつヘテロセクシュアルのキャラクターや人物を、ジェンダークィアであるかのように (カミングアウトなしで) 表現・演出することによって、LGBTQ+の視聴者や消費者の気を引くことをいいます。

ハリーに対しては、「これまで少なくない数の女性との交際が報じられてきていることからジェンダークィアではない (と思われる) !」のに、アルバム『Fine Line』のカバーがトランスジェンダーのフラッグ (ピンクと水色) を思わせるカラーリングであったことや、フリルやリボンなどのジェンダー・ニュートラルな衣装を着用していること、バイセクシュアルをほのめかすような楽曲を発表していることから「クィア・ベイティング」ではないかという批判がなされています。「クィアっぽく振る舞うなら」とセクシュアリティをカミングアウトすることを求める動きがあるのです。

とはいえ、これって「カミングアウト」したらクィアに振る舞っても許してあげるよ、というような構図になっていて、少し引っかかります。もちろん、ハリーのセクシャリティがどうあれ、気兼ねなくカミングアウトができる (あるいは、カミングアウトをするという考え方すらない) 社会になることが最も絶対に大切です。しかし、カミングアウトはしなくてはいけないことでもないし、カミングアウトしていないからと言って「なにかを隠している」というわけではないのです。そう、ハリーのセクシャリティがどうであれ。もし、クィア的なファッションや言動については、カミングアウトのうえ、しかもコミュニティが承認しないと許されない/搾取だ……ということになれば、今後、この社会におけるジェンダー観は「男らしさ」と「女らしさ」の間が抜け落ちて、どんどん極端に、そして、窮屈になりそうです。

おそらくハリーのクィア的な振る舞いは、支配的で暴力的で女性を軽視し、弱さを認めず、男性間の承認に依存するといった「有害な男性性」から距離を置くためのもの。彼はジェンダーのグラデーションのあいまいさのなかに自分を位置付け、インタビューではセクシュアリティなどの「パーソナルなことについて公に説明しない」という態度を明確に示しています。このように、固定的なジェンダー観 (旧来的な男らしさ・女らしさ) を打破しようとする振る舞いが、クィアベイティングとみなされてしまう。このことは、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる現代のパラドックスと言ってもいいでしょう。

2つのスピーチ

他方、彼の出自である女性を中心としたファンによって世界的な人気を得るようなボーイズ・バンド (日本でいうところのアイドルグループ) は、その評価者が主に女性であるということから、音楽賞などにおいては冷遇されてきました。これは、「女たちの評価はアテにならない」という女性蔑視的な価値観を前提としています。このような位置付けについて彼が自身で言及したのが2月5日 (現地時間) グラミー賞の授賞式でした。

感謝を述べるなかで「このようなことは自分のような人間にはほとんど起こらないことで……」と述べ、One Direction (ワン・ダイレクション) というボーイズ・バンド (日本でいうところのアイドルグループ) 出身の自分の来歴について (ちょっとわかりにくいかたちでしたが) ふれたのです。

しかし、彼が受賞した年間最優秀アルバム賞は、グラミー賞で最多受賞である Beyonce (ビヨンセ) が一度も受賞できていない重要な賞でもありました。このことから、白人男性であるハリーに対しては「黒人女性であるビヨンセから賞を盗んだうえに、自分のような人間……とのたまうとは何事か!」との批判の声があがったのです。

でもその直後、2月11日にはグラミーで上がった批判に反応するように、イギリス・ロンドンでのブリット・アワードのアーティスト・オブ・ザ・イヤーの授賞式のスピーチのなかで、「自分の特権を自覚しています」とコメント。そのうえで、母親や One Direction のメンバーに感謝を述べ、さらにこのカテゴリーにノミネートされなかった女性アーティストたちである「Rina Sawayama (リナ・サワヤマ)、Charli XCX (チャーリー・XCX)、Florence + The Machine (フローレンス・アンド・ザ・マシーン)、Mabel (メイベル)、Becky Hill (ベッキー・ヒル) にこの賞を捧げます」と付け加えたのでした。

このように、彼は「ジェンダー的になんとなくいいこと」をしようとしているのではなく、実は「男 (らしさ)/女 (らしさ) の階級」を打破すること、および、攻めた自己演出によってあいまいなジェンダーのあり方を守ったり作ったりすることにかなり的 (まと) を絞っているようです。でも、「クィア・ベイティングでは?」とか、「ビヨンセに敬意を欠いている!」という批判は全くの見当違いというわけではありません。ハリーは少なくとも白人男性であり、ビヨンセのような黒人女性より容易に名声を手にしたことは否定し難いし、彼をシスジェンダーでヘテロセクシャルとみなすことは、彼の旧来的なジェンダー観に対するチャレンジングな振る舞いを許容するために(社会の側に)必要だったのかもしれません。

それでも、ハリーの言動ジェンダーのグラデーションのあいまいな部分を (まず) 目に見えるかたちで体現するというヴィジョンと戦略に貫かれているのでないでしょうか。アイドルとして大きくなりすぎたイメージを、等身大のハリー・スタイルズの元に引き戻し、できる最善をつくしているからこそ、いまの彼による音楽と言葉に、耳を傾けずにいられないのです。

 

 

この投稿をInstagramで見る

 

@harrystylesがシェアした投稿