kyohei sakaguchi
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「とにかく素直に」坂口恭平が革命だと自負する生き方

kyohei sakaguchi

photography: michi nakano
interview & text: mami hidaka

Portraits/

文筆家、建築家、美術家、音楽家として多彩な表現活動を行う坂口恭平。3.11東日本大震災を機に、故郷の熊本に戻った坂口は、日々畑仕事と原稿執筆、作品制作などのルーティンをこなしながら、自殺者ゼロを掲げて立ち上げた命のセーフティネット「いのっちの電話」の相談員として、10年間自殺志願者の声に耳を傾けてきた。

近年取り組むパステル画でもその才能を遺憾なく発揮。いずれの作品も、自然と一体になるほど徹底的に観察して描かれたものであり、なによりパステルに触れる時間が坂口自身の躁鬱体質を癒していったのだという。現在その個展「Water」が、山梨県北杜市の GALLERY TRAX (ギャラリートラックス) で開催中(〜8月1日)。本展の開催にあたり、坂口は「今、一番新鮮な世界で、僕は今、ようやく現実と出会っているのかもしれない」とコメント。縦横無尽なインタビューを通じて、膨大な量のパステル画とこの言葉が指差す未来が見えた気がする。

「とにかく素直に」坂口恭平が革命だと自負する生き方

僕は毎日発見している。風景を。今まで目に入らなかったことにどんどん焦点が当たっている、当たった瞬間に別のものに移動している、それくらい僕は変化している。風景も変化している。パステルをもつ指も変わり、指先はいつも動いている。その動きそのものが興味深いから、止まらない。

それくらい僕は何も知らない。空の青について何も知らなかった。今はいくつものパステルの色を塗り重ねる。晴れた日にも暗い色が入っている。光と影がそこら中に満ちている。躁鬱病の僕は鬱を忌避し、躁をあっぱれだと思っていた。しかし、晴れた日にはとても強い黒い影が生まれる。頂点があり、どん底があるのではなく、気分の上がり下がりではなく、気分、ムード、感情の、色調があるようなものが、その途端に、僕の内面もエベレストから海溝まであったジオラマが一気に粒子になって崩れ落ちて、ふわふわとそこら中に浮いている大気になった、自分の体が気象になった。線も面も粒子に戻って、そこら中に気配として残っているだけになった。

坂口恭平「畑への道」より(『Pastel』、2020)

GALLERY TRAX にて開催中の「Water」にて。Tシャツは Cy Twombly (サイ・トゥオンブリー)。

──たくさんの作品が並びますが、画面の中で窓枠や飛沫感染防止のアクリル板が効果的に使われていたりと新たな表情も見えます。坂口さんは、パステル画で光と影をグラデーションでとらえられるようになったことで、躁鬱病への考え方も変わったそうですね。

毎年一回開催してきたGALLERY TRAXでの個展も6年目です。美術家として、テーマからすべて自分で決めて展覧会を開いたのはここが初めてでした。僕は孫悟空に憧れているので、毎日のパステル画が修行です。僕の場合これに負けると下手すれば自殺してしまう。でもついに今度の9月10日で鬱を抜けてから2年を迎えます。これはけっこうミラクルなことらしく、精神科医の斎藤環さんは僕のことを自力で躁鬱を治した一人目としてずっと調べています。躁鬱の人はルーティンをこなす毎日が合っているような気がしますね。多くの人は「週5日働け」と言われたら大体働けるわけですけど、でもそこから僕みたいにルーティンすらぶっ飛ばしてしまうともっと自由ですよ。僕は毎日10枚原稿を書くと決めて、本当に毎年3650枚は書いてきましたし、今は一日50枚くらい書いています。執筆業のほうも、それがルーティンであることが僕にとって一番重要なことなので、「本にする」という概念すら捨てて、使えるか使えないかは一切気にせずただ書くようにしているんです。こんな感じで、僕は本一冊分のテキストを一週間ほどで書いてしまいます。

──昨日書いた原稿と今日書いた原稿がつながるともかぎらないような。そういう怒涛の書き方だとものすごく担当編集との信頼関係が必要そうですね。

つながらないようで、いつかどこかでつながるんですよ。打ち合わせはね、「書籍をつくります」というスタート自体が社会性そのもののように感じられて嫌なので、一度もしないんです。編集さんの提案や意見を待たずに、こちらが最初から原稿3000枚用意しておきたい。数千枚の原稿をポシャることもありますけど、ポシャるという感覚もあまりなく、「今は違うけどいつかはきっと」ととらえているラッキーボーイです。今日も急に雨が止んで、すごく晴れましたしね。

──坂口さんは、自殺者ゼロを目指した「いのっちの電話」などのご活動をされていて、そのご苦労は計り知れないものですが、不思議と自己犠牲の精神が見えません。熊本に移られてからはとくに、まずご自身のことを大事にされているような印象も受けます。

そうですね。例えば、自分自身が悩みとすら認識していないようなことを言葉に置き換えてみたり、ちょっとしたことでもすべて自分のために言葉にするようにしています。『躁鬱大学』という新刊もすべて自分のために書きましたが、不思議なことに読者からは「どうしてこんなに私のことを知っているんですか」と電話がかかってくるんです。「いのっちの電話」では、1日に100人もの相談を聞きますが、この10年間で「絶対に自分にしかわからない」「自分だけが感じているこのなんとも言いようがないもの」こそ普遍だとわかりました。

1日に100人の自殺志願者の電話に出るとなると、自分もどこかで楽していかないと「なんで0円でこんな大変なことをやってるんだ」と我に返ってしまうかもしれない。中途半端に社会性を帯びた人間にはなりたくないので、とにかく素直でいることを心がけています。僕にとっては、美術も文章もただ素直でいつづけるための手段なんです。評価されることが目的ではないので、誰からなにを否定されようが一ミリも痛くない。実際に僕は自画自賛してるだけですから。「この素直さは半端ないぞ!」って自分で言ってるだけですからね(笑)。

──3.11を機に東京を出て熊本に戻られたのも、素直であるためのご決断だったのでしょうか?

そうそう、僕は素直だから緊急事態への反応が速いんです。僕は自分の命に固執していないぶん、普段あまりにも無防備すぎて、ああいう緊急事態下では生き延びろと本能が訴えてくるんです。当時はとにかく一刻も早く気持ち悪い状況から脱したかった。そこにとくに深い思考はなく、都度瞬発的な反応しかしていないです。家族に鎌仲ひとみ監督の『ヒバクシャ 世界の終わりに』という映画を観せると、移住についてすぐに納得してもらえました。

──3.11やパンデミックを経てもなお、都市では再開発が進み、貧富の差も広がるなかで、本当の幸せはなにか考える機会が多くなりました。ちょうど最近、社会福祉が充実している国として北欧について調べていたんですが、北欧5ヶ国はどこも幸福実感度が世界トップ7に入ってくるんです。でもだからといってじつは自殺率が低いわけではないようで、理想的な社会がどのようなものなのか、ビジョンを描くことすらも難しく感じました。

僕からしたら毎日『12モンキーズ』みたいにパニック状態。時間旅行と世界的パンデミックを描いたSF映画なんですけど。コロナ禍で人間の弱みが浮き彫りになったともいうけど、実際は元々全員やばかったんだと思います。日本では毎年3万人と人が死んでいくのに、こんな状況が続いててパニックにならないほうが不思議。「あんたなに言ってんの」「あんたや家族が上手くいってるならそれでいいじゃない」と言われても、もしかしたら隣の部屋では人が死んでるかもしれないんですよ。死にそうな人がいたら助ける以外の選択ありませんよね?「危ないものは外に出しなさい」みたいな排除のムードが自然とあり続けるから、自殺者が絶えない事態になっているのに。

──日本は、富裕層が集まって財布を共有して貧困層に分ければいいところを、どうしても自分ひとりの成功に奮起する人がいて、いっぽうでは自分の心身の健康を投げ打ってまで社会の力をなりたいような人がどんどん潰れてしまう社会ですよね。昨今、相談員のようなケア人材が「エッセンシャルワーカー」として企業や学校に配置されたりと注目を高めていますが、彼彼女らがその仕事を生業とするにはまだまだ厳しい状況だそうです。

10年以上「いのっちの電話」を続けてきましたけど、1人だけ本当に死んじゃいました。でも3万人以上の自殺志願者と電話してきて、1人を除いてみんな死なずに済んだのは奇跡だと思います。「いのっちの電話」につながる人間が、350人、400人、500人……といれば、一発で自殺者数は0になる。僕自身は仕事にしていないですけど、いのっちの電話を手伝ってくれる人に自分の会社から100万円お給料出してるんですよ。でも理想としては、500万くらいの年収をあげたいです。僕が菅首相だったらこの電話をもっと活用したいですもん。じつは熊本県知事や熊本市長からは協力をお願いされたことがあるんですよ。普通に県知事が庁舎に僕を呼びだして協力を頼まれるので、その敷居の低さも熊本の面白いところです。まあなかなか実現が難しいので、ゲリラ的に「新政府」を立ち上げたんですけどね。

ギャラリーの看板犬、ヴィヴィちゃんと。

──今「新政府」を再開するとしたらどのような社会を思い描きますか。

僕はこの資本主義経済のなかで、わざと0円ですべてまかなえる経済を実現しました。これは革命だと自負しています。職を持たなくても、極論誰かとずっと抱き合っていれば一生生きていけると思う。切迫しているとセックスレスになったり、関係が擦れていくとかもないんですよね。いのっちの電話とかもそういうことです。いつでも僕に直接電話できることさえ保証すれば相手は死なない。それだけなんですよ。ひとり詩人が電話をかけてきて、売れてはいないけど彼の作品がすごく良かったのでメロディーをつけて送り返したんです。そのとき僕が彼に「このコミュニケーション以外なにか必要?」と聞いたら『たしかになにもいらないですね』、「友達ほしい?」『いや、もういりません』。……ですよね!って。なんとか賞を獲ったり、書籍を出すことに固執する必要はないんです。それで生活ができないという人には全員生活保護を受けさせて、足りないという分は、彼らの作品を買ったことにして僕が支給しています。

僕は「まんが日本昔ばなし」から影響を受けていて、困っている人がいたら、盗人でも食事を与え、事情を聞いて、それがちょっと心痛む内容であれば許したい。自分の利益のためにずるい嘘をつけば針山に落ちて、カチカチ山のように火がついていき、みんな死んでしまう気がするんです。根本にはそういった「坂口恭平経済」のイメージがありつつ、べつに資本主義を否定して新しい経済をつくろうというわけではなく、どんどん個人の革命を重ねてレイヤー構造にできればいいはず。僕の場合、一歩間違えるとヒーロー病です。すべて僕の盛大な勘違いかもしれなくて、これは病なんです。THE FASHION POST のインタビューで何を言ってるんだという感じですけど、ほとんど出鱈目だと思ってくださいね。